HONDA CR-Xデルソル (delSol) 1992-1998 memorandum

CR-Xデルソルとは どんな車だったのか

ホンダの名車・CR-Xの名を継ぐ3代目、それがCR-Xデルソル。
完全な2シータースポーツクーペとして、また、業界初のハードトップ・電動オープン機構を備えた後世のスポーツカー市場に少なからず一石を投じた、という意味ではホンダらしいコンセプトのもとで誕生したスポーツカーでありました。
しかし先代のイメージである走りの追求からは遠のき、まったく方向性を変更してしまったたがためにかつてのユーザーは離れていき、ほとんど売れずB級マイナー車と位置づけられてしまう。
なぜホンダは、自身が確立した「FFライトウェイトスポーツ」を無視してまでこのクルマを出したのか、なぜここまで路線変更をしなければならなかったのかを、収集した資料による情報裏付けのもと、掲載いたします。

CR-Xデルソル サンバグリーン

CR-Xデルソル開発において生じた課題

CR-Xは海外で高額なスポーツカーとなってしまった

ときはバブル経済まっただ中。

CMのキャッチコピーから「サイバー」というニックネームを与えられ圧倒的な支持を得ていたFFライトウェイトスポーツカー、2代目CR-Xも、モデルチェンジの時期が到来してきました。
サイバーCR-X
2代目 CR-X (EF系)

しかし、CR-Xは3代目のモデルチェンジに関して、いくつかの課題を抱えていました。

当時ホンダは、兄弟車であり同じVTEC DOHCエンジンを搭載したスポーツシビック がプリモ系列にあり、ベルノ系列であるCR-Xは、競合を避ける必要がでてきました。

スポーツシビック
スポーツ・シビック(EG系)

さらに重要な課題として、アメリカ市場でCR-Xがスポーツカーとしての位置づけを確立してしまい保険料が高額な車種となってしまったことで、所有するにはとても高額な車となってしまいました。

そのため、次に出すCR-Xは、真っ当なスポーツカーから路線を外さねばならなくなりました。

これらの課題をクリアするため、開発チームは次のCR-Xを同じライトウェイトスポーツクーペとして出すことができず、走りを追求したものから大きく方向性を変えねばならない状況になり、コンセプトの見直しを迫られることとなりました。

そこで、走りを少しマイルドにして、別の魅力を盛り込んで、もっとゆったり走ってもらうオープンカーはどうか、ということに方向性が決まりました。

そう、これがすべての始まり。

3代目CR-Xが、なぜライトウェイトFFスポーツを捨てなければならなかったのか。
その理由は、「スポーツカーとして生産できなくなった」にあります。

海外市場は無視できず、中でもアメリカにおいて売れない車を作るわけにはいかない、
歴代CR-Xは小型かつ良燃費であることからセクレタリカー(秘書やキャリアウーマンが通勤用や勤務中の移動手段として使う車)として米国市場を確保していた車ですから、高額保険が枷となることを懸念、その市場を手放すわけにはいきませんでした。

しかし結果として、その路線変更は日本でスポーツカー市場を手放してしまうことになってしまうわけです。その件については後述します。

「我々は硬派なスポーツカーを待っていた。出てきたCR-Xはお世辞にもスポーツカーとは呼べない。軟派なファッショナブルカーだ」 これが世の評価

ホンダがCR-Xデルソル開発に苦悩している間も、歴代CR-Xファンやカーマニアの間では次世代CR-Xに、「ライトウェイトFFスポーツカー」としての多大なる期待がかけられていました。

CR-Xモデルチェンジの噂があちこちでささやかれ、あちこちのカー雑誌で「次のCR-Xこそほんとうに2シーターとなるらしい」「FFではなくミッドシップになる」と騒がれました。
それほど、次のCR-Xには期待が高まっていました。

1992年3月、
待望の3代目CR-Xは、そのような雑誌やライターの憶測とは無関係に、「デルソル」というサブネームが付けられた、
クーペボディでありながら電動オープンルーフをそなえ「オープンにもクーペにもなるクルマ」、
「タイムを競い合いスピードを追求するクルマではなく、ゆっくりでいいから、走ることを楽しむクルマ」、
として、デビュー致しました。

CR-Xデルソル
3代目 CR-X デルソル

最大の特徴は、スイッチ操作のみで屋根をトランクルームの専用ホルダーに収納できる、『トランストップ』と名付けられた電動オープンルーフ。
トランストップ

キャッチコピーは「太陽のスポーツ」。
今ではオープンカーのカテゴリーとして確立された、「クーペ・カブリオレ」、
一般量産車として一番最初に出したのが「CR-Xデルソル」です。
(それまでにもトヨタ・ソアラにもハードルーフが自動格納するモデルはありましたが限定車で一般量産車ではなかったと聞いています)

その3代目CR-Xの容姿は、よくも悪くも、期待を裏切るには十分すぎるインパクトを持っていました。
ただ、その大半は、「悪くも」の方でした。

「なんだこの肥え太ったCR-Xは」

ずっとCR-Xを待ち望んでいた人々は、変わり果てた、といってもいいすぎではない3代目CR-Xに、
驚き、そして落胆しました。

ライトウェイトスポーツカーとはお世辞にも呼べない肥え太ったボディ。
コーダトロンカ(ファストバック)デザインじゃない。
先代より重い車重。
先代より甘いハンドリング。
先代のようなとんがったピーキー感、キビキビ感がない。

 ライトウェイトスポーツカーを待っていたCR-Xファンは、この変わり果てたCR-Xを認めたくありません。 一気に熱が冷めることになります。
なにしろ、それまで歴代CR-Xが築いてきた'ライトウェイトFFスポーツ'の一切を否定するかのようなコンセプトであったから。
その不人気ぶりは、デルソル発売当初、先代のサイバーCR-Xの中古相場が上がったほどのものでした。

少なくとも、CR-Xの購買層は、ゆっくりでいいから走ることを楽しむ人達ではなく、街乗りに気軽に使いたい女性でもなく、ジムカーナで、ヒルクライムで、誰よりも速く走りたい、純粋なスポーツカーユーザー達だったのです。

CR-Xデルソルをデザインした繁 浩太郎氏は、ここまでコンセプトがガラリと変わるので、CR-Xの冠は付けたくなかった と、言っています。

総生産台数、およそ16,500台。 トヨタカローラなら1ヶ月で売りさばく販売台数。

CR-Xデルソルは、ありとあらゆる自動車雑誌、専門誌で酷評されました。
その大半が、先代との比較によるものでした。これは仕方のないこと。
それだけバラードスポーツ、サイバーが素晴らしかった証。

やがて、数ヶ月経過すると次第に話題にすらもあがらなくなりました。

実際その不人気ぶりは販売台数に比例し、国内ではほとんど売れませんでした。
というより、相手にされなかった、という表現のほうが的を得ているでしょうか。
サードパーティ・メーカーは、おそらく採算がとれないであろう理由からオプショナルパーツも出さず、ディーラーであるホンダベルノですらも、CR-Xデルソルの展示は早々に撤去。

ちなみにこの「5年で約16,500台」という総生産台数、トヨタ・カローラなら1ヶ月で売りさばく数字です。
高級スポーツカーならまだしも200万前後の普通車でこの数字です。

1995年にマイナーチェンジしましたが、それは販売強化のテコ入れというよりも、生産時に使う部品点数を減らしコストを下げた感がありました。

CR-Xデルソル マイナーチェンジ
後期型

そして、世間ではミニバンが全盛、スポーツカーが売れなくなり始めた1997年8月に新規登録受付を終了(当時のホンダベルノ販売員談)、1998年12月、CR-Xデルソルの生産はひっそりと終了しました。
同時に、CR-Xという車名がホンダから消えることとなりました。

販売期間、6年弱。

販売終了後もデルソルの風当たりは悪く、ホンダからCR-Xの名が消えたのはデルソルのせいだ、と言われました。

ところが、海外では人気が高く、
USAでは総計70000台のセールス記録があります。

そして歳月は経ち、平成が終わり、令和の時代になりました。

ただでさえ販売台数の少ないCR-Xデルソル、21世紀になった現在その現存数は絶滅寸前に等しく、町中ではまず見かけることがなくなりました。
懐古系自動車雑誌にも、ホンダ専門の雑誌にも姿をみることはほとんどありません。

しかし、

マイナーなものほど、熱烈な愛好家がいるのは、クルマも同じ。
CR-Xデルソルにも、熱烈愛好家は日本にも海外にもたくさんいます。
このサイトを管理運営している私も、そのひとりです。

そして、かつてあれほど見向きもされなかったCR-Xデルソルが、
今や「なんだあれは」的視線を送る方、「ひさしぶりに見たよ」と好意的に話しかけてくる方、
ようやく、誰からも、何も言われなくなりました。

黒歴史とか、なかったことにしたいクルマとか、散々今でもいわれているデルソルですが、開発陣はハードルーフを格納する方法を本気で開発し、デルソルを通じて’ホンダ’を示したかった、常に一石を投じたい気持ちを形にした、そんなクルマでもあります。

参考資料:
HONDA STYLE vol.66 「Happy 20th anniversary CR-X del sol '挑戦'が生んだ美しき異端児」
国産名車コレクションvol159

最終更新日 2022年4月9日

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